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俺は弾かれるように身を翻すと、階段を駆け上がった。 今のは、誰の悲鳴だ。由美子さんたち……ではない、はず。俺はそう思いたかった。しかしそう思うのとは別の場所でこうも思っていた。今のは、確実に由美子さんの悲鳴だ、と。 何かが起こったのだ。 赤いインクで書かれた文字の羅列が俺の焦燥感を高める。 今夜12時誰かが死ぬ? 信じられない。 ――晩夏、信じられない出来事があっただろう? 違う、あれは隆山だから起こったことだ。 ――ヤツのような存在があそこにしかいないと何故言える? 狩猟者がいたら俺に感じ取れないはずがない。 ――過信は破滅につながるぞ。 俺だけじゃない、梓だってついているんだ。そう簡単に。 と。 気が付く。 背筋が凍る。 そうだ、何故忘れていたんだろう。 梓の「力」が通じない相手がいる。うぬぼれではなく、狩猟者の中では最強レベルの戦闘力を持つ俺でさえ戦慄せずにはいられない相手がいた。 危険だ。 危険だ。 危険だ! 階段を上りきる、傍から見ていると一瞬に見えたであろう時間が、俺にとっては無限に長く感じられた。 まだ間に合う。 まだ取り返しのつかない事態になるまでの猶予を「ヤツ」に与えてはいないはずだ。 俺は自分の部屋のドアを開けた。 「……!」 その光景は俺を愕然とさせた。 いや……もしかしたら、予想通りだったかもしれない。 ベッドの上に人がいた。 絡み合うようにもつれている。 その場所から逃げ出そうとして果たせなかったとでも言うように、由美子さんの身体は床にうつ伏せに倒れていた。 やはり。 「梓! 無事か!?」 俺は声を張り上げた。 既に梓の顔は真っ赤に染まり、意識をなくしているようにも見えた。 そのからだの上で。 かおりちゃんがウフフと笑っていた。 ・ ・ ・ こらー、離しやがれこのクソおとこー、あぁん、あずさせんぱーい。 後手に縛られた女の子が、そんな風に部屋の隅でじたばたもがいている。 「耕一ぃ、ありがとー」 涙目で梓が俺の腕を掴む。 しかしかおりちゃんのテクニックは……。 由美子さんはいきなり背中と首筋を触られ失神したらしい。彼女がくたりと倒れたかと思ったら、梓の上に何かがのしかかってきた――と。それ以降は梓は何が何やら覚えていない、というのが梓の説明だった。 由美子さんはまだ意識を失ったままだ。 一体どのような技を使ったのか。俺はかおりちゃんの指技に戦慄を覚えた。 「何があったのかね」 と訝しげな小林さんに、な、何でもないですから、と言い訳するのが何だか恥ずかしかった。 「由美子さんとかおりちゃんを一緒の部屋にするのは危険だな」 小林オーナーを何とか納得させた後、俺たちは善後策を練っていた。 かおりちゃんは梓以外に興味がない、と断言出来るわけではない。もし女性相手なら手当たり次第、ということになると……。貞操の危機だ。イヤだ、由美子さんの貞操を奪うのは俺だ! 俺は心の中で握りこぶしを作った。 「提案」 「はい、梓くんどうぞ」 「かおりは一人でこのまま部屋に押し込んでおきましょう」 「魅力的な提案だ」俺は答える。「しかし、後輩に対してその所業はあんまりだとは思わないか」 梓は少し顔をゆがめたが、きっぱりと言い放った。「貞操には換えられません」 そんな経緯で、俺と梓は縛られたかおりちゃんを部屋へと運んだ。 誰にも見られないように、と足を忍ばせて。 パタン、とドアを閉めたあと、俺は囁く。 「おい、梓、なんかかおりちゃん静かだったな。もっと騒ぐかと思ってたんだけど」 猿轡までは、していない。 梓はもごもごと口の中で何かをつぶやいている。 「何だ、はっきり言え」 「いやー、ちょっとねー」ぽりぽりと頬を人差し指でかく梓。「あとであたしが一人で忍んで来てあげるから、とか言っちゃったりなんかして」 ひ、非道だ。 歓喜の表情を浮かべ、目を輝かして梓を待つかおりちゃんを思い浮かべ、不憫に思ってしまった。この様子からすると、行く気なんてないんだろうし。梓を気絶させてあの部屋に放り込んでやろうか、と計画を練ってみた。 「ま、ほら、かおりにもいい薬だって」 梓はアハハと笑っていた。 二人で部屋に帰る。由美子さんはまだベッドの上で眠っているようだった。 「ベッドが二つしかないが、どうするんだ」 「決まってるだろ。あたしと小出さんが使うんだ」 「俺は?」 「耕一は床で寝れば?」 ひどいことを言う、と俺は憤慨した。 「それともさ」梓は俺の顔を覗き込んだ。「あ、あたしと一緒でいいなら……」 俺は沈黙する。 梓も押し黙った。 音もなく数秒間が過ぎた。 「な、何とか言えよ」 「由美子さんが一緒なんだから何にも出来ねーぞ」 「な、ナニもって」 「あー、おい、梓、なに顔を真っ赤にしてんだ。変なこと考えてるだろ」 「ふ、ふん」 梓は憤然とした様子を見せ、自分のバッグをあさり始めた。 「おい、どうした」 「何でもない! シャワー浴びる。覗くなよな」 着替えをひっつかみ、梓は浴室へと消えた。 相変わらず、からかうと面白いやつだ。 うーむ、それにしても。 「日帰りの予定のはずなのに何で着替えを……」 「そりゃ、スキーの後って汗とか雪とかで濡れちゃうから」 「わっ」 いきなり肩越しに由美子さんの顔がにゅにゅっと出てきて、俺を驚愕させた。 「ゆ、由美子さん、起きてたの?」 「柏木クン、ホントに従妹さんと仲がいいんだねー」 いや、そんなことはない、お、俺の瞳には君しか映っていないよベイベー、そんな軽口を叩きたかったが到底出来ないほど不意を突かれていた。気配も感じさせず! 由美子さんはもしかしたら凄まじい武道の達人かもしれない。俺はチャイナ服っぽい武道着を身にまとった彼女の姿を妄想した。 「そ、そうかな」 「うん、そうだよ」 シャワーの音がかすかに聞こえてくる。 「覗きに行かないの?」 「そんなことするわけないだろ」 俺は苦笑した。由美子さんならともかく、梓のやつを覗いても仕方がない。理由はいろいろあるが……まぁ、ここでは言う必要もないことだな、うん。 「もしかして見慣れてるとか」 「ば、ばかな」 「あ、柏木クン動揺してるー」 ころころと笑う由美子さん。なんだか、俺がおもちゃになっている気がする。何と言うか、俺と梓との関係によく似ているぞ。立場が逆だが。いかんいかん、主導権を握らなければ。しかしどうしたものか。俺は善後策を練った。 「そうだ、私って向こうの部屋に戻った方がいいのかな」 いや、それは危険だ、あのかおりちゃんの危険さはさきほど体験したはずだ、と俺は言い募った。 「うーん、でも、私いちゃお邪魔かなーって」 何をおっしゃいますやら、逆に邪魔なのは梓です、出来うるならやつを放り出してわたくしこと柏木耕一は貴女と一緒に一夜を過ごしたいのです、なんて直接的なことはさすがに言えない。そんなことない、ここにいてください、とだけ由美子さんに伝えた。 「じゃ、ちょっと、私もシャワーとか浴びたいし、着替えとか取りに行っていいかな」 「俺も付き添います」 由美子さんのシャワーシーン、透明の水滴が彼女の優雅な曲線を流れていく様子や、熱いお湯を気持ち良さそうに浴びる表情などの妄想を振り払いながら、俺は答えた。本当はシャワーをお共したい。 「じゃ、行こっか」 「うん」 俺たちは立ち上がる。 部屋を出る際、俺は浴室のドアを叩き「ちょいあっちの部屋まで行ってるからなー。すぐに戻る」と梓に声をかけておいた。ほいほい、と返事があったので聞こえているだろう。 部屋を出て、廊下を歩く。 時刻は十二時に近い。既に電気は小さく灯っているだけで、薄暗い。 馴染みのない場所で視界が悪いと、何だか不思議な感じがする。 がちゃがちゃと部屋の鍵を開け、由美子さんが荷物を取ってくるのを見守る。縛られながら、ピンク色のフェロモンを撒き散らしながらベッド上で悶えているかおりちゃんの姿は、極力視界に入れないようにしながら。 「……」 「……」 パタン、とドアを閉める。 かおりちゃんのことは、二人ともなかったことにする方向で暗黙の了解を得ていた。 廊下を歩く。 二人きりだ。本当なら、と俺は思う。本当ならこれから二人きりの夜を過ごせたりしていたかもしれないんだよなぁ、惜しいなぁ。ため息をついた。 ふと、由美子さんの手に俺のそれが触れた。 視線を向けると、彼女もこちらを向いて微笑み、そして手を握ってきた。鼓動が弾む。たったこれだけのことで、と俺は落ち着こうとするが無理だった。経験が少ないんだもんなー、女性に慣れてないんだよ俺は。ちょっと情けなかった。 少し彼女へ見を寄せ、手を強く握り返そうとしたとき。 俺の頭の中で警報が鳴った。 「……!」 由美子さんの手を引き、俺の背後へと廻らせる。 「え? か、柏木クン?」 ……あの、ドア……。 一つのドアに視線を集中させる。 あれは――。 渡瀬可奈子さんという名前の女性が泊まっている部屋だったはず。 「どうしたの?」 「静かに」 俺は真剣な口調で答えた。 突然なのだから由美子さんがいぶかしむのも当然だ。しかし。俺には感じられたのだ。 この部屋で、何かが起こった。 ――血の臭いがする。 かすかに、チリチリと、頭の中を何かが走った。 ドアが静かに、ゆっくりと開く。 俺は緊張してそれを見守った。 背後からはおずおずと、由美子さんが覗き込んでいる。 服を着ていない女性が、現われる。 身体中を何かの液体で覆われた女性。 後ろで、由美子さんが「ひっ」と息を飲んだ。 血の臭いが、廊下に充満した。 くたり、と渡瀬さんは倒れこんだ。開いたドアの内部へ注意を払いながら、俺は彼女のもとへしゃがみこむ。多量の血を浴びているが、彼女自身に傷などはないようだった。完全に意識を失っている。 「し、死んでるの?」 「いや、大丈夫。息はあるよ」俺は由美子さんを見る。「あの、すぐに小林さんに――あ、いや、梓に伝えて彼女と一緒に小林さんに伝えてくれないか」 もし「何者か」がいた場合、由美子さんを一人にするのは心配だ。梓が一緒にいれば大丈夫だろう。そう俺は考えた。 と、そのとき。 「耕一! どうしたんだ」 バスローブを羽織っただけの梓が、廊下に飛び出してきた。 あいつも何か気配を感じたのかもしれない。ただならぬ気配を。 俺の側に倒れている渡瀬さんを見て、梓は表情を変える。どうしたんだ、と俺に視線を向けるが、俺は「分からない」と首を振った。 「梓、とりあえず、小林さんに伝えてくれないか」 「わ、分かった」 バスローブのまま階段を駆け下りる梓。恥じらいのない、などと考えている暇もない。俺は眠るように倒れこんでいる渡瀬さんを見た後、彼女の部屋の中へと視線を向けた。 確認してみるべきだろう。彼女をこのまま放っておくのも忍びないが、下手に動かすのもどうかと思うし。 俺は立ち上がる。 部屋へと向かうと、由美子さんも俺の背中へ張り付くようにしてついてきた。 気配を探るが、誰もいる様子がなかった。 由美子さんを守るように、俺は部屋へと入る。 「な、なに……これ」 部屋の中は、まるでここだけ暴風雨が通り抜けたようなありさまだった。 めちゃくちゃに倒れたテレビやベッド。濡れた天井、壁、床。こんな有様になるには相当な騒音が出るはずなのに。 俺はまるで聞こえなかった。 眠っていたときがあったか? いや、たとえあったとしても起きるはずだ。危機感地能力には自信がある。 これは一体――。 「柏木クン、あっちは」 由美子さんが浴室を指差す。 耳を澄ますと、ピチャン、ピチャン、と水滴の打つ音が聞こえてきた。シャワーの閉め忘れとか、渡瀬さんが誰かを連れ込んでいてその人が身体を洗っていたりしてたりとか、だったらいいなぁ、と務めてよい方向に考えながらも、そんなわけないだろうというもう一つの思考が頭を支配した。 浴室のドアをそっと開き、内部を確かめ、すぐに閉めた。 「誰かいた?」 「……いや。あ、由美子さんは、見ないほうがいい」 「え」 浴室には誰もいなかった。 ただ、在った。 俺は吐き気を覚えた。 つい先瞬の光景に。 それは、梓たちと一緒にいた二人の男たちの――。 腕、足首、太もも、腰部、胸部、肩、そして頭。 バラバラにされた彼らの死体だった。 (つづく) |